ある日。
朝、ピザトースト、ココア。
映画が夫婦で見るとお得な日なので、夫と「騙し絵の牙」を観に行く。映画のときはだいたいチュロスとホットココアをお供に選ぶのだが、なぜかチョコレートのチュロスはすぐにできるけど、私が頼んだシナモンチュロスは5分ほどかかると言われた。それで「いいですよ」と伝えたのに、後ろからベテランぽい店員も出てきて、「本当にいいのか?」と聞いてくる。結局しばらく待たされ、不機嫌全開でずっとチュロスを作っている人のことを見ていた。夫に、「きみはお腹が空いているときと、待たされているときはだいたい不機嫌になるから、早めに作ってほしい」と、念を送っている。やっとその店員さんができあがりを告げてくれて、ウキウキで受け取りに行き、戻ってきた私を見て夫がひとこと。「あんなに眉間に皺を寄せていて、不機嫌だったのに、チュロス片手に嬉しそうに笑っている君って、こどもみたいだな。あきれる」とのこと。肝心な、映画は、原作と全く違う内容で、もはや別の映画だった。これは、本も映画も別に作って楽しんでもらおう、というか利益を上げようという角川の思惑か。原作が好きだったので、帰ったら原作を読もうと思いながら映画を観ていた。でも、ラストはどちらも本への希望があって個人的には好きだった。
それからは、それぞれ買い物して、昼食を食べるために集合して、二人でオムライスを食べた。私はアクタスでどうしてもかごのトレーが欲しくて、買った。RHCでDRESSSENのバッグ。かわいい。逃げ恥で新垣結衣がつけていたエプロン以来のファンなので、偶然の出会いに感謝。母の日のプレゼントを探して帰る。義母には女優ミラー、うちの母にはスリッパ。
帰りに、最寄り駅のスタバでチャイチョコフラペチーノを飲んで帰る。買い物疲れで糖分を欲した。
帰宅して、Wシリーズの続きを読む。どんどん、頭がクリアになっていって気持ちいい
『デボラ、眠っているのか? Deborah, Are You Sleeping?』読了。ウォーカロンの少女がハギリ博士を攻撃しに来たことをきっかけにトランスファの存在が明らかになる今作。冒頭のウォーカロンの少女がハギリ博士を襲ってくるところでビクッとする。こういうの苦手。怖い。でも読みたい。この描写が読み終わるまで、私の頭の中では映像となってループしていた。ラストの人間だからこそのインスピレーションのところがよかった。そもそも、この躰というものがいつまで必要なのかというところ、いつか未来ではバーチャルになるのだとうか?例えば私が100歳まで生きるとして、そのころまでにはそういう選択肢も生まれてくるのだろうか。そうしたら肉体的疲労によってだいたいのことを諦めてきた私なんぞはちょっといいなぁなんて思う。あと、徐々にハギリ博士とウグイの距離が縮まっていることにきゅんとなる。「二人の間に文化が築かれていることが確認できた。 なるほど、これが人間というものか」と、表現されている。こうして文化が築かれていくというのは、改めて意識するとすごいことだ。
他、心に残ったことば。
「人間は、基本的に合理的な思考をしない傾向を持っています。私には、そう観察されます。無駄なことを考え、最適ではないものを選択します。それでも人間は後悔をしない。自分が選んだことに満足し、それで命を落とすことさえあります」
「単なるインスピレーションだ。人間しか、それをしない。人間は演算しない。偶然。そう、偶然だ。そんなものに頼るのは、人間だけだ」
一気にWシリーズを読み終える。すごいスピードで読みつづけている。『私たちは生きているのか? Are We Under the Biofeedback? 』読了。今回は、躰を持たないウォーカロンの存在を知り、生命の概念に直面するというなんだか一気にとんでもない未来の話。果たして、生きているというのはどういうことなのか。生きがいを作り、現実のものをほぼ擬似体験できるバーチャルの中で生きる躰がないたち。なかなかすごい未来だ。
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