ある日

今日から、6月。朝、起き上がれたものの不調のため、夫が朝食を用意してくれる。冬の終わりころに不眠症が始まって、春先にはストレスと疲労からの咳が止まらなくなった。その咳は3か月も続き、その間に高熱が出る風邪が2回来た。やっと咳も出なくなったら、上唇が驚くほど腫れて原型もないほどのヘルペスが出現した。何をするにも痛かった。それに咳のし過ぎでみぞおちから左わき腹に何をしても激痛が走って、また不眠症になった。夫は、リラックスすることが大切だというけれども、すべての思い当たるリラックス方法は試してみた。入浴剤をいれたお風呂に使ったり、自炊したり、散歩したり、自転車に乗ったり、映画を観たり(Amazonprimeで1日3本も観て夫を呆れさせる)、本を読んだり(1日3冊ほど読んで夫を呆れさせる)、お香をたいたり、深呼吸をしたり、体調がそぐわない中でもできるであろうリラックスはありとあらゆることをやった。これ以上何をすればいいのかと、ネットで朝から晩まで検索した。それで、また夫を呆れさせる。「きみ、リラックスっていうのは頑張ってするものじゃないんだよ。だいたい、本当に動いてないとだめなんだな」と言われる。動きすぎて、疲労したためにこうなっているというのに、懲りない。思えば、そもそもの発端は小学校1年生のときに、心臓に疾患が見つかってからだ。来月死んでいるかもしれないと毎日思う中で、今日やりたいことは今日やっておかないと明日はないかもしれないと思った。それに生まれながらの向上心と負けん気の強さが災いして、やりたいことは山ほど溢れてきて、やってもやっても満たされなかった。やりたかったことを達成したとたん、あんなに夢中でやっていたことをあっけなく忘れ、次のことに向かっている。誰に褒められようと、誰に認められようと、決して満足しない。もっとできたんじゃないのか?といつも思っている。そんな様子を見て、夫は「きみほどのアスリート気質はいない」と言われる。夫の父親も、私と似たような性質であるようだが、決定的に違うところは、義父は自分を褒める、満足する、そして、人に褒められてとんでもなく嬉しそうにしている。そして、また次に向かう。あぁ、どうして私は満足できないのか。満たされず、少しの余白も許さずに私は自分の欲望のままに走り続けている。止まろうとしても、止まることができない。明日、生きているかどうかは分からないのにと思う。どこかにいつも死が付きまとう。すべての生活や、人間関係や、そういった煩わしいものにちょっとの時間も使いたくないのだ。


この2週間寝込んでいる間に、吉田篤弘を読んで片岡義男を読んで江國香織を読んでいた。この三人をずっとループさせたいほど好きだということに気づいた。吉田篤弘と片岡義男の本では、豪徳寺、松原あたりが舞台で重なることがあって、ノートとか、タイトルの感じとかが本当に好き。それに、片岡義男と江國香織は、タイトルが秀逸だし、色っぽい雰囲気が日常から染み出ている感じが好きだ。


お昼まで眠り、それからAmazonprimeでシャーロックホームズを見る。あぁ、この映画好き。2作あったのを両方見て、それで原作を読んで、あぁ、やっぱり映像はすばらしかったなぁと思ったので、また明日も見ようと決めた。


夜、買い物もいけていなかったので冷蔵庫にあるもので料理をなんとか作る。ピーマンの塩炒め、豆もやしのナムル、キムチ、韓国のり、酸辣湯風スープ。かなり熟していたトマトがあったので、それと賞味期限が迫っていた卵、それだけで酸辣湯風のスープを作った。めちゃくちゃ熱くておいしかった。それが大量にできてしまったので、次の日は、蕎麦で酸辣湯麵風のそばを作って食べようと思う。


片岡義男の『くわえ煙草とカレーライス』読了。「カレーのおいしい喫茶店にははずれはない。そこにはいくつもの物語を通り過ぎてきた客や店主が待っていて、席に着けばすぐに小説がはじまる」 あの頃の、奇跡のような「日常」がここにある。 男と男/男と女を巡る7つの物語とある。これみて読みたくなって読んだけど、面白かった。カレーとコーヒー。どちらも好きだ。食べたくなって飲みたくなる。それでカレーを食べに行く、食後にコーヒーを飲む。それでもループは止まらない。最後の短編は豪徳寺、世田谷線が舞台で、昔住んでいた懐かしい景色を思い浮かべる。ノートとかネタとかそんな感じが、好きだ。6月の今に読み始めてぴったりだった。雨が降っていたらもっと最高だったけれども、今年の梅雨は全く雨が降らない。降る、降るといって、傘を持ち歩くけれど一向に降らない。「ここのコーヒーはうまいからね。ただ単にうまいだけではなく、気力が高まるような気がする」気力が高まるような気がするコーヒーってどんなコーヒーだろう。でもなんとなく私にとっての気力が高まるコーヒーはすでに分かっているような気がする。そういう店のそういうコーヒーっていうのはきっとあるんだと思う。カレーとコーヒーの件を読んでいると、「グラニースミス」が出てくる。グラニースミスのアップルパイが食べたいなぁと、すっかり頭の中はカレーとコーヒーからアップルパイへと移っている。最も印象に残っている言葉。

「ひとりの男がスプーンを一本持ってひと皿のカレーライスと対峙する時、そのひとりの男は、いまこの自分、という種類の現在なんだよ。彼の過去がおおむね肯定されたものでないことには、その現在の居心地は良くない。だから良きカレーライスというものは、ひとりの男が持つ過去というものを、少なくとも帳消しにする能力は持っている。まあなんとかここまで来た、充分じゃないか、と肯定することの出来る過去は、現在の居心地を良くする」

「カレーライスは、俺の理屈では、現在そのものなんだよ」


片岡義男のカレーとコーヒーからの洋食、『洋食屋から歩いて5分』を読了。七月半ばの暑い夏の日のことを書いているけれども、今は6月と言えでもちっとも雨も降らず、真夏のような暑さなのでぴったりだ。この本も小説を書く思考をそのまま小説にしていて面白い。小説を書くためにノートにメモを取ったり、ことばを選ぶ過程を描写したり、まるで小説家の頭の中をそのまま読んでいるような気持ちになる。「日常の枠の中で、その日常からほんのちょっとした非日常へと意識を移すにあたって、一杯のコーヒーは効果を発揮している」やっぱり片岡義男にはコーヒーが似合う。作中にドトールのブレンドが出てくる。やっぱり書物を読んだり、ノートに言葉を書いたりするのってドトールなんだよなぁと思う。スタバでも上島珈琲でもなくて、やっぱりドトールなのだ。江國香織、吉田篤弘のように、日常を描いているのだけれどとんでもなく非日常なのが好きなのかもしれない。





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